日本歌曲

赤とんぼ 歌詞の意味・解説

「赤とんぼ」は、三木露風(1889-1964)作詞、山田耕筰(1886-1965)作曲により、1921年(大正10年)に発表された日本歌曲の名作です。

大正期を代表する童謡・芸術歌曲として、幼い日の記憶と故郷への郷愁を、赤とんぼという小さな生き物を通して詩情豊かに描いた作品です。

「赤とんぼ」の歴史と解説

「赤とんぼ」は、1921年(大正10年)に鈴木三重吉が主宰する児童文学・童謡雑誌『赤い鳥』に掲載され、世に知られるようになりました。

『赤い鳥』は1918年に創刊され、芥川龍之介、北原白秋、西条八十ら当代一流の文学者・詩人たちが参加した、大正期の児童文化運動の中心的な媒体でした。三木露風の「赤とんぼ」もこの流れの中で生まれた作品であり、子ども向けの歌でありながら、大人の心にも深く訴えかける詩情を備えています。

山田耕筰の作曲は、詩の持つ静かな哀愁と郷愁を、シンプルでありながら品格のある旋律で見事に表現しています。曲はホ短調、3/4拍子で書かれており、三拍子の緩やかな揺れが、夕暮れの情景と物思いにふける心情を自然に引き出しています。

作詞者・三木露風

引用:三木露風|Wikipedia

三木露風は、兵庫県龍野市(現・たつの市)に生まれた詩人・随筆家です。幼少期に両親が離婚し、母と別れて祖父のもとで育てられました。この幼年期の経験(母への思慕、故郷の原風景)が「赤とんぼ」の詩の根底に深く流れていると考えられます。

露風は北原白秋とともに「白露時代」と称されるほど、大正詩壇を代表する詩人の一人でした。のちにカトリックに改宗し、北海道のトラピスト修道院で長く生活するなど、その人生もまた詩のように劇的でした。

作曲者・山田耕筰

引用:山田耕筰|Wikipedia

山田耕筰は日本近代音楽の父とも呼ばれる大作曲家です。東京音楽学校を経てベルリン高等音楽学校で学び、帰国後は日本初の本格的なオーケストラを組織するなど、日本における西洋音楽の普及と発展に多大な貢献をしました。

「荒城の月」の編曲者としても知られる山田耕筰ですが、「赤とんぼ」をはじめとする歌曲の作曲においても傑出した才能を発揮し、日本語の自然なアクセントを旋律に活かす独自の手法を確立しました。

「赤とんぼ」の意味と背景

「赤とんぼ」というタイトルは、夕暮れどきに群れをなして飛ぶ赤とんぼの情景を表しています。日本において、赤とんぼは秋の夕暮れを象徴する存在であり、古くから詩歌にも多く詠まれてきました。

この歌の特徴は、現在の視点から幼い日の記憶をたぐり寄せるという、重層的な時間の構造にあります。

「夕やけ小やけ」の空の下で赤とんぼを見た記憶、姉のように慕った「ねえや」(子守の娘)と過ごした日々、そして十五で嫁に行った彼女のこと。こうした断片的な記憶が、秋の夕暮れに見る赤とんぼをきっかけに静かによみがえってくる、という詩の構造が、多くの人の共感を呼びます。

また「おわれて見たのは」という一節は長らく「(とんぼに)追われて見た」と解釈されることもありましたが、正しくは「(ねえやに)負われて(背負われて)見た」という意味です。幼い自分を背中に負ぶったねえやと一緒に、夕焼けの赤とんぼを見上げた、その幼少期の一場面が、詩の核心をなしています。

「赤とんぼ」歌詞と現代語訳

一番

夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

現代語訳:
夕焼けに染まった空を飛ぶ赤とんぼ
ねえやに背負われながら眺めたのは、いったいいつのことだったろう

二番

山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか

現代語訳:
山の畑で桑の実を
小さな籠に摘んだのは、もう夢まぼろしのように思えてしまう

三番

十五でねえやは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた

現代語訳:
十五歳でねえやは嫁いでいき
故郷からの便りも、もうとだえてしまった

四番

夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

現代語訳:
夕焼けに染まった赤とんぼが
今日も竿の先に、静かにとまっている

日本人の郷愁をさそう「赤とんぼ」

「赤とんぼ」は現代においても、秋の合唱曲として広く歌われています。

一番と四番の歌詞が「夕やけ小やけの赤とんぼ」という同じ書き出しで始まりながら、一番では過去の記憶の中の赤とんぼ、四番では現在の夕暮れにとまる赤とんぼという、時間の対比が、短い詩でありながら深い余韻を生んでいます。

秋の夕暮れどき、赤とんぼを目にするたびに、日本人の心のどこかでこの歌のメロディが静かに響くでしょう。