カンツォーネ

オーソレミオ 誕生から100年後に現れた共同作曲家マッツッキの真実

「オー・ソレ・ミオ」は1898年に発表されたイタリア歌曲の代表的な曲です。ナポリ出身のエドゥアルド・ディ・カプアが作曲者であるとされてきましたが、2002年になって第二の作曲者アルフレード・マッツッキが共同作曲家として認められました。この記事では、ディ・カプアとマッツッキの関係、作曲の経緯、そして共同作曲家と認められるまでの背景をご紹介します。

オー・ソレ・ミオの第二の作曲者マッツッキ

「オー・ソレ・ミオ」エドゥアルド・ディ・カプアEduardo Di Capua 1865-1917)作曲、ジョパンニ・カプッロ(Giovanni Capurro 1859-1920)作詞によって1898年に発表されました。
しかし「オー・ソレ・ミオ」のメロディついて、アルフレード・マッツッキ(Alfredo Mazzucchi 1878-1972)が一部作曲したものであるとして、現在では共同作曲家であることが正式に認められています。
1887年にマッツッキが作曲した23のメロディをディ・カプアが購入し、それらを原曲として作曲したのが「オー・ソレ・ミオ」を含めて18曲あったということを、マッツッキの死後に彼の娘がUfficio della Proprieta Letteraria Artistica e Scientifica(文学芸術科学館)に申し出たのが始まりです。
ディ・カプアの子孫もまた当初はそれを認めずに争っていましたが、2002年にはトリノ裁判所によってマッツッキは共同作曲家として認められました。

これだけを読むと、まるでディ・カプアがマッツッキの功績を自分だけの物にした盗作者であり、マッツッキが可哀想な日陰の存在のような印象を受けませんか?

他人が作曲したメロディを取り入れて自分の名前だけで発表するなんて・・・

名前の知られていない若い作曲家のメロディを買い取って自分ものにするなんて・・・


ディ・カプアとは、マッツッキとは、どのような人物だったのでしょうか?
そして、ディ・カプアとマッツッキはどのような関係で、なぜ「オー・ソレ・ミオ」発表時にはマッツッキの名前は表に出なかったのでしょうか?

エドゥアルド・ディ・カプアの人物像

エドゥアルド・ディ・カプア
Eduardo Di Capua 1865-1917

エドゥアルド・ディ・カプアは1865年3月12日、ナポリで生まれました。彼の父もまた音楽家であり、ヴァイオリニスト・ストリートミュージシャン・作曲家として幅広く活動していました。
ディ・カプアは音楽教育の基礎を父から学び、ナポリ音楽院へ進みます。1983年頃から作曲を始め、ナポリ周辺の劇場やレストランで歌手として活動しながら作曲活動を続けていました。
「オー・ソレ・ミオ」は父のバンドと一緒にロシアのオデッサにツアーで滞在している間に作曲したといわれています。
ツアーから帰国後、この曲をピエディグロッタ音楽祭に出品したところ、見事に第2位に選ばれました。「オー・ソレ・ミオ」は観客の心を掴み、優勝曲を凌ぐ世界的な大ヒットとなりました。

アルフレード・マッツッキの人物像

アルフレード・マッツッキは1878年にナポリで生まれました。
ディ・カプアより13歳年下です。
マッツッキという人物は、作曲家というよりTranscriber(転記者・謄写者)という職業でした。

彼はピアニストとして、ディ・カプアのような作曲家の作曲活動の手助けをしていました。
作曲家が生み出そうとしている音楽を、実際に彼がピアノを弾いて表現することで、作曲家の頭に浮かぶアイデアを楽譜に落とし込む作業を手伝っていたのです。

ディ・カプアとマッツッキの関係

マッツッキ自身がプロのTranscriberとして、そのような作曲家を手助けする仕事を長く続けていて、更に特定の作曲家との信頼関係があれば、彼のほうから作曲家に対して、


「ここはこうした方がもっといいのでは?」
「こういうメロディに続くといいのでは?」


というような提案をしていてもおかしくありません。
そして作曲家のほうも彼の才能を信頼していれば、「それいいね!採用しよう!」となるでしょう。

これは私の個人的見解ですが、
ディ・カプアはマッツッキのメロディを「購入」したのではなく、彼の作曲のプロセスへの「貢献」に対して対価を払っていたのだと思います。
マッツッキの才能を信頼していたからこそ彼のメロディを取り入れたのだし、マッツッキもまたディ・カプアの作曲をサポートしたいという気持ちで取り組んでいたからこそ、二人の共同作品は18曲にものぼるのではないでしょうか。
二人は「作曲者」と「作曲サポーター」として、良きパートナーだったのです。
これらの曲は二人の信頼関係を基盤とした共同作業から生まれた曲なのではないかと思います。

マッツッキが沈黙していた理由は?

では、なぜ「オー・ソレ・ミオ」が発表された当時にマッツッキは自身が作曲に関わっていることを発表しなかったのでしょうか?

「オー・ソレ・ミオ」が発表された1898年、マッツッキはまだ20歳という若き音楽家でした。
当時の彼は、「オー・ソレ・ミオ」が世界的な大ヒットとなった状況で、自身が沈黙の共同作曲家であることを特に気にしていなかったという説もあります。
むしろ彼自身は、あくまでも自分はディ・カプアを手助けしたTranscriberであり、共同作曲家とは意識していなかったのかもしれません。

だからこそ彼の死後すぐに「待ってました!」とばかりに彼の娘が共同作曲家であることを主張したのではないでしょうか。
マッツッキ自身は共同作曲家として名乗り出ることを求めていなかったのではないかと思います。

大ヒットの利益は誰のもの?

ディ・カプアが決してマッツッキを搾取した訳ではないという理由のひとつに、経済的な利益に関する背景もあります。
大ヒットを記録した「オー・ソレ・ミオ」ですが、実際に作曲者であるディ・カプアと作詞者であるカプッロはその経済的恩恵をほとんど受けていませんでした。
二人はピエディグロッタ音楽祭のスポンサーであるBideri出版社に、この曲の権利を25リラで売却してしまったのです。

補足:25リラはどのぐらいの価値?

世界的な大ヒットとなった曲を、たった25リラで出版社に売却してしまったディ・カプアとカプッロ。25リラとは具体的にどのぐらいの価値のお金なのか?
気になったので調べてみました。

当時のイタリアでは通貨である「リラ」とは別に、ドゥカートDucato)という硬貨が古くから流通していました。イタリア王国が統一されて、イタリア・リラが新たに制定された1861年、1ドゥカート=約4.5リラと定められました。このレートからすると、25リラ=約5.6ドゥカートになります。
また、“Bel Canto Bully: The Life and Times of the Legendary Opera Impresario”によると、ドゥカートの価値として、下記のように書かれています。

1820年代から1830年代には、1ドゥカートで3.5リットルのオイル、もしくは4.5kgの肉を買うことができた。(中略)
工場労働者の平均月収は5ドゥカート、年収は60ドゥカートであった。個人付きのコックの年収は192ドゥカートにのぼった。(中略)オペラハウスのディレクターの年収は約2400ドゥカート、成功した作曲者はひとつのオペラにつき約1900ドゥカート、有名なオペラ歌手は1シーズンで6000ドゥカート、主役のプリマドンナは19000ドゥカートにもなった。

“Bel Canto Bully: The Life and Times of the Legendary Opera Impresario” by Philip Eisenbeiss

25リラ=5.5ドゥカートと計算すると、25リラの価値は・・・

  • 約25kgの肉を購入できるぐらいのお金である。
  • 工場労働者の月給より少し多いぐらいのお金である。
  • 一流の音楽家の報酬には足元にも及ばないお金である。

※「オー・ソレ・ミオ」が25リラで売却されたのは1898年なので、上記の1820〜30年代のドゥカートの価値、1961年のレートをそのまま当てはめることはできませんが、ひとつの目安にはなると思います。

「オー・ソレ・ミオ」の大ヒットの恩恵を受けたのは出版社です。
さらに2002年にトリノ裁判所でマッツッキが共同作曲家であることが認められてから、それまですでにパブリック・ドメインになっていたこの曲について、日本をはじめ著作権の期限を「作曲者の死後70年」と定めている国に関しては、新たに2042年まで著作権が復活したのです。
ほとんど利益を受けなかった当時の作曲家たちに対して、現在ではその子孫たちが著作権による収入を得ているのかもしれませんね。

参考文献

  • “A Profile of the Song “O Sole Mio”
    https://www.liveabout.com/profile-of-the-song-o-sole-mio-724307
  • Capurro and Di Capua – Naples Life, Death and Miracle
    http://www.naplesldm.com/copy.php
  • https://it.wikipedia.org/wiki/Alfredo_Mazzucchi
  • https://en.wikipedia.org/wiki/Venetian_lira
  • Bel Canto Bully: The Life and Times of the Legendary Opera Impresario