「パッヘルベルのカノン」は、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel, 1653-1706)により作曲されました。
歌詞を持たないバロック音楽の器楽曲でありながら、クラシック音楽の枠を超えて世界中で最も広く親しまれている名曲のひとつです。日本では結婚式のBGMやCMなど、誰もが耳にしたことがあるクラシック曲です。

「パッヘルベルのカノン」歴史と解説

正式なタイトルは「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」(原題: Canon a 3 Violinis con Basso c. / Gigue、作品番号PWC 37)といい、私たちが「パッヘルベルのカノン」として親しんでいるのは、この作品の前半にあたる第1曲「カノン」の部分です。

後半には「ジーグ」という当時流行していた快活な舞曲が続きますが、現在ではほとんど演奏されず、カノンの部分のみが単独で取り上げられるのが一般的です。パッヘルベルが生涯に書いたカノン形式の作品は、実はこの1曲のみとされています。

作曲年代や経緯は正確には分かっていません。生前のパッヘルベルはオルガンなど鍵盤楽器の作品で名声を得た音楽家で、200曲以上の器楽曲を遺しましたが、室内楽曲はほとんど残ってないのです。

長らく1680年頃の作とされてきましたが、音楽学者チャールズ・E・ブルーアーは、この曲がハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバーが1696年に出版した『Harmonia artificioso-ariosa』第3部のカノン的要素を持つシャコンヌへの応答として書かれた可能性を指摘しており、その場合はビーバーの出版以降の作曲ということになります。
こうした作曲年代をめぐるこうした議論は現在も続いています。

250年間眠っていた名曲

クラシックファンの間でよく語られるエピソードとして、この曲がおよそ250年ものあいだ忘れ去られていたという事実があります。

この曲は、パッヘルベルの存命中に出版されることはなく、写本の形でのみ伝わっていました。転機となったのは1919年、音楽学者グスタフ・ベックマンがパッヘルベルの室内楽に関する論文の中でこの曲の譜面を紹介したことです。さらに1929年、古楽研究者マックス・ザイフェルトが編曲版として出版しましたが、この版にはスラーやテンポ指定など、原典にはないアーティキュレーションが加えられていたことがわかっています。

現在演奏されている多くの版は、こうした後世の校訂を経たものであり、パッヘルベル自身が意図したテンポや奏法とは異なっている可能性がある点は、ピリオド楽器奏者の間でもしばしば議論の対象となっています。

その後、1968年にジャン゠フランソワ・パイヤール室内管弦楽団が録音した、優美なアレンジによる演奏が世界的にヒットし、1970年代に入ってようやく一般に広く知られる存在となりました。作曲からおよそ250年後に「発見」されたという、クラシック音楽史でも稀有な経緯をたどった作品です。

「パッヘルベルのカノン」の音楽的構造

「カノン」とは、先行する声部の旋律を後続の声部が一定の間隔で模倣し続ける、対位法の中でも特に厳格な形式です。似た形式に「フーガ」がありますが、フーガでは主題以外の声部にある程度の自由が許されるのに対し、カノンは全声部が終始同じ旋律を正確に追いかけ続けるという、より厳密な規則に支配されています。

この曲では、第1ヴァイオリンが旋律を提示し、2小節遅れて第2ヴァイオリンが、さらに2小節遅れて第3ヴァイオリンが同じ旋律を追いかけます(いわゆる「同度カノン」)。この3声部を根底で支えているのが、通奏低音による2小節単位の低音型で、曲を通じて28回、一度も変化することなく反復され続けます。この執拗に繰り返される低音パターンは「オスティナート・バス」あるいは「グラウンド・バス」と呼ばれ、17世紀のシャコンヌやパッサカリアといった変奏形式との深い血縁関係を示しています。

この通奏低音の和声進行は、いわゆる「大逆循環」に分類される進行で、現在では「カノン進行」「カノン・コード」の通称で、日本のポピュラー音楽にも用いられています。
パッヘルベルは、同時代のブクステフーデやビーバーのような劇的で技巧的な対位法とは対照的に、単純で明快な書法を好んだ作曲家として知られており、複雑な変容を避けながら3声部の受け渡しだけで28回分の変奏的興趣を生み出しているこの曲は、彼の穏健な作風を凝縮した作品といえます。

なお、原典に近い演奏を志向するピリオド楽器アンサンブル(クリストファー・ホグウッドやオルフェウス室内合奏団など)と、パイヤール盤に代表される現代オーケストラ的な演奏とでは、テンポ、通奏低音(チェンバロ)の扱い、ヴァイオリンのダイナミクスの付け方などに大きな解釈の幅があり、この一曲だけで「演奏習慣の違い」を比較する格好の教材としても、クラシックファンの間でしばしば聴き比べの対象とされています。

聴き比べにおすすめの名盤

同じ楽譜でも、解釈や演奏方法によって印象が大きく変わるのがこの曲のおもしろさです。誰もが知るシンプルなメロディだからこそ、編成・テンポ・通奏低音の扱いなど、タイプの異なる演奏をぜひ聴き比べてみてください。

1. ジャン゠フランソワ・パイヤール室内管弦楽団(1968年録音)
この曲を世界的に有名にした、いわば「元祖」とも言える演奏です。弦の厚みを生かした豊麗でロマンティックな響きが特徴で、テンポもゆったりめ。現代的な感覚で「カノン」と聞いてまず思い浮かぶ、いわば基準となる演奏です。

2. カラヤン=ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
マックス・ザイフェルト校訂版を使用した、フルオーケストラによる余裕のある演奏。弦の人数もパイヤール盤よりさらに多く、通奏低音(バス)の拍節感がしっかりと強調されているのが特徴です。

3. オルフェウス室内合奏団(1989-90年録音)
指揮者を置かないアンサンブルによる、現代的で華やかな演奏。チェンバロの通奏低音が比較的前面に出て自由な即興性を感じさせ、ヴァイオリンの表情づけも豊かです。

4. クリストファー・ホグウッド=エンシェント室内管弦楽団(ピリオド楽器)
バロック当時の楽器・奏法を再現した「古楽器(ピリオド楽器)演奏」の代表格。ガット弦特有の柔らかく落ち着いた響きで、テンポも比較的速め。パイヤール盤やカラヤン盤の「後世の校訂によるロマンティックな装飾」を取り除いた、原典に近いと考えられる響きを体験できます。

聴き比べのポイント

  • 通奏低音(チェンバロ/低弦)の音量バランスと即興性の有無
  • 全体のテンポ設定(ゆったり荘厳型か、快活型か)
  • ヴァイオリンのフレージングへのロマン派的な装飾(スラーやデュナーミク)の有無
  • 曲の結び方(フェルマータでじっくり減衰させるか、あっさり終えるか)

シンプルな旋律でありながら、奥深い対位法の妙を秘めたこの曲は、クラシック音楽に初めて触れる人の耳にも自然に馴染む親しみやすさと、通奏低音の構造や演奏解釈の違いを追求したくなるほどの奥深さを併せ持っています。

クラシック初心者からディープなファンまで、聴く人の数だけ楽しみ方がある、普遍の一曲と言えるでしょう。