音楽家

ベートーヴェンの生涯・関連作品

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven/1770–1827) は、モーツァルトらの「古典派音楽」を更に発展させて、のちに続く「ロマン派音楽」への道筋を築いた作曲家です。それまでは王族や貴族たちの娯楽だった音楽を、芸術の域へと引き上げた人物でもあります。

ベートーヴェンの生涯

西暦 年齢 出来事
1770年 出生 12月16日ドイツのボンで生まれる
1773年 3歳 宮廷楽長だった祖父が他界
1780年 10歳 作曲家ネーフェに師事
1784年 14歳 宮廷オルガニストとなり一家の家計を支える
1787年 17歳 ウィーンでモーツァルトの前で即興演奏を披露する
母マリアが他界
1789年 19歳 フランス革命が起きる
シラー『歓喜に寄せて』に出会い自由と博愛の賛歌に強く共感する
1792年 22歳 ウィーンに移住
作曲家・ピアノ演奏家としての名声を集めていく
1798年 28歳 耳が聞こえにくくなる
1802年 32歳 ハイリゲンシュタットで療養する
遺書を書く
1805年 35歳 交響曲第3番「英雄」初演
1808年 38歳 交響曲交響曲第5番「運命」第6番「田園」初演
1810年 40歳 耳がほとんど聞こえなくなる
「エリーゼのために」作曲
1815年 45歳 弟パスカールが他界し甥カールの後見人争いが起きる
1824年 54歳 交響曲第9番「合唱付き」初演
1827年 56歳 3月26日肝硬変で亡くなる

ボンで過ごした少年期

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven/1770–1827)は1970年12月26日ドイツのボンで生まれました。祖父は宮廷楽長、父ヨハンも宮廷でテノール歌手を務める音楽一家でした。
ベートーヴェンが3歳の頃に祖父が他界してから一家の暮らしは大変苦しくなり、父ヨハンはアルコールに依存するようになります。その頃に神童として成功を収めていたモーツァルトの噂を耳にした父ヨハンは、我が子をモーツァルトのような有名な音楽家にしようと厳しく教育します。酔った父は真夜中にベートーヴェンをたたき起こしてピアノやヴァイオリンのレッスンを始めましたが、ベートーヴェンは父の厳しい教えに耐え抜いて上達していったのです。
10歳の頃、作曲家ネーフェがボンの宮廷オルガニストとして就任し、ベートーヴェンはネーフェに師事しながら14歳には宮廷オルガニストの助奏者となりました。酒浸りの父、体が弱い母、そして兄弟たち。一家の暮らしを支えていたのです。

モーツァルトとの出会い、母の死

16歳の頃、初めてウィーンに行くチャンスが訪れます。当時31歳だった大音楽家モーツァルトの前で即興演奏を披露して、「この少年は今に有名になる」と宣言されたと言われています。母マリアの危篤の知らせを受けて、初めてのウィーン滞在はわずか2週間となりました。ベートーヴェンがボンに戻ってほどなく母は他界します。隣国ではフランス革命が起こり、時代は大きく変革していました。シラーの『歓喜を寄せて』と出会ったのもこの頃でした。その自由・博愛の賛歌にベートーヴェンは強く共感し、いつかこの詩を音楽にしたいと心に決めたのです。

再びウィーンへ

1972年、ベートーヴェンは再びウィーンへ渡りました。モーツァルトが35歳で亡くなった翌年でした。ベートーヴェンは演奏会を開いて作品を発表するなど、音楽家として有名になっていきました。ピアノ演奏や即興演奏の腕も認められ、たくさんの生徒にピアノを教えるようになります。
音楽家として活躍をしていたベートーヴェンですが、28歳の頃から耳が聞こえにくくなります。
「悲愴」「月光」「熱情」などのピアノソナタが生まれたのはこの頃です。

ハイリゲンシュタットの遺書

1802年、静養のためにウィーン郊外のハイリゲンシュタットという村に訪れていました。
音楽家にとって聴力を失うことの恐ろしさに絶望した心のうちを、弟たちに向けて書いたのが「ハイリゲンシュタットの遺書」です。
しかしこの遺書を書いたことによって、ベートーヴェンに転機が訪れました。音楽への情熱が、聴力を失うことの恐ろしさを乗り越えたのです。耳を失ってもなお自分には果たすべき使命がある、自分の中には音楽が響いている・・・こうして更に作曲に没頭していくことになったのです。

苦悩を乗り越えて傑作が生まれていく

ベートーヴェンの音楽に対する情熱と使命感は更に強くなり、作曲家としてさらなる高みへと進んでいきます。
交響曲第3番「英雄」は、平和と平等の闘った英雄としてナポレオンに献呈しようと考えていましたが、その後ナポレオンが皇帝に即位すると彼は激怒して、「ボナパルトに献じる」という文字を書き消したと言われています。
この後の10年間は創作の全盛期と呼ばれ、交響曲第5番「運命」、交響曲第6番「田園」など数々の傑作が生みだされていきました。
しかし、1816年頃からベートーヴェンの健康状態が悪化していきます。重度の鉛中毒だったという説もありますが、腹痛・下痢などの持病に苦しめられていました。
また、弟カスパールの息子である甥カールの後見人をめぐり、カスパールの妻ヨハンナとの間に法定争いが起こるなど、様々な困難が起こり、ベートーヴェンの作曲活動は停滞してしまいます。
その後、1818年には停滞を打ち破り、ピアノ・ソナタ「ハンマークラヴィーア」をはじめ、ピアノ・ソナタの集大成を書き上げます。そして「ミサ・ソレムニス」に着手を始めます。当初は大公の就任祝いのために書き始められた曲でしたが、ベートーヴェン自身がその構成を壮大なスケールへと発展させていったため、就任式には間に合わず、完成まで5年を要したと言われています。

最後の交響曲、第9番「合唱付き」

「ミサ・ソレムニス」という大作を完成させたことで、歌声の持つ力を改めて実感したベートーヴェンは、交響曲に合唱を組み合わせることを思いつきます。そして、10代の頃に出会ったシラーの「歓喜に寄せて」を本格的に音楽という芸術に転化する時が来たと心を決めました。
そして生まれたのが最大の芸術音楽となった交響曲第9番「合唱付き」です。
病床の中で交響曲第10番の作曲を始めていましたが完成することなく、1826年3月26日、ベートーヴェンはは56歳で生涯の幕を閉じました。
一般市民にも広く名前を知られていたベートーヴェンの葬儀には、2万人以上の参列者が集まったと言われています。

ベートーヴェンを題材にした映画

不滅の恋/ベートーヴェン(1994年)

photo from:musicintheround.co.uk

ベートーヴェンの死後「不滅の恋人に捧ぐ」という遺書が見つかったことで、秘書アントラ・シンドラーが「不滅の恋人」を探しに旅に出ます。ベートーヴェンの生涯を振り返りながら、不滅の恋人の正体に迫っていくサスペンス要素もあります。ゲイリー・オールドマンがベートーヴェンを演じているのですが、ピアノ演奏シーンはほとんど本人が弾いているそうです!

エロイカ(2003年)

photo from:BBC.co.uk

こちらは交響曲第3番「エロイカ」を主題とした映画です。
ウィキペディアによると、ベートーヴェンの後援者フランツ・ロブコヴィッツ王子の宮殿で公演が行われた様子を中心に、ナポレオンに激怒するベートーヴェン、そして耳が聴こえなくなっていく過程などが描かれているそうなのですが、日本語ではあまり情報がなく、日本で公開されたのかどうかもわかりません。
参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Eroica_(2003_film)

敬愛なるベートーヴェン(2006年)

photo from:
Handmaiden to a Maestro and Midwife to His Symphony(NY times)

こちらは交響曲第九番が誕生する過程を描いた作品です。
50代となり耳が聴こえなくなったベートヴェンのもとに、若く美しい女性の写譜師アンナが現れます。
最初は小娘だと思って相手にしなかったベートーヴェンですが、アンナの音楽的な能力と献身的なひた向きさに徐々に心を開いていきます。アンナもまたベートーヴェンの才能を間近で見ることで心を打たれながらも、彼の無頓着な言動に振り回されながら、手足耳となって支えていきます。
髪がぐちゃぐちゃのまま街を歩き回ったり、巨大な補聴器を耳に当てながら大声でしゃべりちらしたり、時にはユーモアも見せ、作曲となると一心不乱になるベートーヴェンの姿はリアリティがあります!晩年のベートーヴェンをイメージすることができます。

原題は「copying Beethoven」というタイトルで、copying=写す=写譜を指しています。直訳すると「ベートーヴェンをコピーする(写譜する)」という意味になりますね。
日本語のタイトルは「敬愛なるベートーヴェン」となっていて、アンナのベートーヴェンに対する想いに焦点が当てられています。